2009年1月1日木曜日

ある洗車屋の一日‐消えゆく青春・第三部‐


ある洗車屋の一日‐消えゆく青春・第三部‐            三鷹二郎



安重根と並ぶ英雄が北朝鮮に現れるのを、
ぼくらはあと何年、何ヶ月、何日、何時間、
いや、何分、何秒、待てばよいのだろうか?     梁赤日

真っ白い小さな鷺よ伝えてよ亡きあのひとにこの悲しみを  エリサ





ぼくの一日は、終電三本前の中野行に、豊田駅から乗ることで始まる。
「時間だよ」
「おっ」
かみさんの声で、痛む左腰をかばいながら、ぼくは起きあがり、
「あっ」
《右足拇指の肉刺が水ぶくれのままだった》と、畳に思いっきりこすった肉刺の痛みで目が覚める。
踵止め付サンダルを履きながら、
《焼いた針で突いて、水だけでも出しておけばよかった》
そして扉を開けながら、
《でも、針穴から破傷風菌が入ったのではと心配しなくてすむし》と、十一時半にはおんぼろ公団アパートの三階から階段を降りきって、地上に立ち、タバコに火を点ける。
《大体ぼくは、黒く腫れあがってポロリと落ちるとか、壊疽とか、黒死病とかにはまるで弱いんだ》
今日一本目のタバコの煙を吹きあげながら、部屋の真下の横断歩道を渡る。ヴェランダにしゃがみこんでタバコをふかしながら、駅に程遠からぬこの交差点を行き交う人、車、チャリンコの往来を終日見おろしていたあの幸せな日々はすでに遠い。
零時九分過ぎにはぼくは電車のひとだ。
車内は酔っ払いばかりかと思えば、これから夜勤の出勤風の人もかなりいて、疎らな乗客の男女比はどちらかといえば女のほうが多いくらいだ。ぼくは扉際の空席にすばやく腰をおろして、冷凍庫で凍らせた水道水のボトルをリュックから取りだし、キャップを空けて、溶け出したわずかばかりの水を啜る。いま電車は深夜の日野橋鉄橋を轟音を立てて渡っている。多摩川の増水もひと段落だ。中洲にまたワーキングプア族のマイホームがちらほら見える。
《増水したら、ヘリで吊り上げられるなんて、素敵な暮らしぶりだなあ!》
ぼくはまた開いたページに目を落とす。図書館で借りた箒木蓬生の『受命』を読みさしのまま、今日はその前作とおぼしき『受精』を読んでいるのだ。
《舞子の死んだ彼氏が発掘関係だったとはなあ!》ちょっとドキリとする。小説中の舞子がブラジルに着くころには、ぼくの電車は三鷹に近づく。慌てて本をリュックに詰めこんで、ぼくはホームに降り立つ。都内との西の境に位置するここ三鷹駅は深夜でも乗降客がかなり多い。隣の吉祥寺では、深夜だからこそ、人ごみはもっと濃いだろう。
駅から会社まで、もうバスはない。深夜バスならあるかもしれないが、どのみち乗るつもりはない。健康のために歩くのだといいながら、痛む足は階段を避けておのずとエスカレーターに向い、北口に降りる。夏が過ぎてもまだ生温い夜気に早くも汗が噴きだす。車なら一分とかからない武蔵野警察までも、歩くと結構あるものだ。井の頭通りが見えたころには、早や疲れを覚える。肉刺など無視しても、かなり好転したものの左足は一昨年来の坐骨神経痛、右足は数年前の膝裏腫瘍摘出手術の後遺症(「安全を期して、筋肉は大きめに切取りました」)があるから、とてもスタスタ足早に、とは歩けない(十数年前にスケボーで折った右足、ステンレス棒二本を入れられた脛の二本の骨は、梅雨時の疼きがなければすっかり忘れるくらいにもう完治しているのだが)。
懐中百三十円。これから稼がねば、帰りの電車賃はおろか、タバコ銭すらもない。
《豊田までの切符代も、ハイライト一箱も二九〇円、これは偶然の一致か? さてどちらを選ぶか? それが問題だ》
そんな今様ハムレットを気取ろうにも、いまはあと百六十円足らない。
《片道切符で出撃たぁ、おれも懐だけはいつでも〈大和〉並みだぁな》 井の頭通りを渡りきるころには早くも汗が顔中、胸元を滴る。北裏まで三鷹通りをひたすら北上するだけのことだが、タバコでもふかさないことには、覇気のない緑の並木を歩きとおす気力が続かない。
「あった、あった」
五日市街道手前の小公園ベンチに転げこむ。汗を拭いて、ボトルの水を飲み、タバコを二服する。空ろな眼で深夜の往来を眺める。駅方面へ向うのは空車のタクシーばかりだ。
《このまま夜明けを迎えたいもんだが、そうもいかない》
《さあ、仕事だ、仕事。よっこらしょ》
武蔵野市役所まえの桜並木を過ぎて、千川上水を渡り(もう、練馬区だ!)、やっと青梅街道に出る。北裏交差点手前で数名の警官が赤棒振って飲酒検問をやっている。
《突きだした警官の鼻面に、酒気の代わりに、もう三日も歯を磨いていないおれの吐息を思いっきり吹きかけてやったら、悶絶するのではあるまいか?》
《でもそいつはあまりにも可哀想ってもんだ。やつらだって人間なんだし、他人の吐息を嗅ぐ、あれもやつらに似合いの仕事なんだ!》
角を曲れば、もう会社だ。



「はい、どうせまた要るんでしょ?」
「うっ、すまねぇ」
かみさんがサラリと封筒入りの三万円を卓袱台のうえに出してくれた。それで免停期間短縮の講習予約を即座に入れられたのだ。その前に聴聞会というやつがあった。「事情を聴取する」といいながら、行政処分はすでに決定済みなのだ。「言い渡すから、出頭せよ!」「言い分があったら、ほざいてみろ!」「聞くだけは聞いてやるから」というわけだ。要するに、これも形骸化した累積点数制度の遺物にほかならない。ぼくの番がきた。ぼくは簡易裁判所の被告席に似た席に歩み出る。出来るだけ軽く会釈する。
「何か、言いたいことがありますか?」
「ある! いいか、おれはこう見えても一家の大黒柱だ。そのおれから唯一の生活手段たるハンドルを奪うってのはいったい、どういうことだ? おれたち一家は首でも括れってのか? 生活権の侵害もてえげえにしろ! 二点三点って按配しちゃあ、はい、一発免停、そうして他人の生活権を踏みにじる、てめえらの気が知れねえ!」」
「ふむふむ、シートベルト不着用が二回」
「何だと、おれはそんな違反は金輪際してねえぞ!」
「あっ、これは失礼。ほかの人の書類でした」
「いいか、禁止帯侵入だとか、車線変更だとか、通行区分違反なんてのは、ちょっと語弊があるが、言ってみれば些細な違反だ。違反は違反だから、当然罰は受けるが、一日二日の乗勤停止くらいが妥当ってもんだ、事故を起こしたわけでも、ましてや人身事故じゃないんだからな! それを一か月、二か月、半年と免停にして、ハンドルで稼ぐ人間から職を奪うってのはどういうことだ。個々の違反とそれに対応する処分のバランスが悪すぎるじゃないか。これじゃ、まるで、おねしょした息子の頭を煉瓦で殴るようなもんだ。とうに内容瓦解した、こんな累積点数制度の見直しを早急にしてもらいたいよ」
「三鷹さん、あなたは去年の九月にも一五〇日間、短縮七五日間免停を喰らってますね? おや、「喰らって」なんて、あなたの言い方がうつってしまった。その間はどうなされていたんですか? 会社の補助でもあったのですか?」
「会社なんて何もしてくれるもんか! あれこれ言われたくないから、さっさと辞めたよ。いまじゃ、バイト同様の八出番、同じ会社のエイトマンさまよ、このおれは!」
「では、免停中はどうやって食べていたのです?」
「奥多摩五日市手前の日の出町で縄文遺跡を掘っていたよ。青空の下で、あきる野の風に吹かれながら、日長一日、土を掘るってのは気分のいいもんだ、食えさえすりゃあね。都心で朝から朝まで、排ガスを吸いながら、ハンドルを握っているよりはずっと気分はいいし、おれは土を掘るのは好きだから、いまでもやっていてもよかったんだ、おれだけならな。だけど、時給七五〇円じゃ、かみさんや息子やおれのお袋はどうなる、日干しになっちまわぁ!」
ぼくの声は一オクターブ上がって、仕舞いには、悲しいことに裏返って、小刻みに震えていた。ともかく、それで、同室のみな九〇日の免停が、おれだけ六〇日間になったのだ。受講料も二万三千円と、いくぶん安かった。
《これで、かみさんに七千円、返せる》おれはそのことが嬉しかった、あのとぼけた行政委員に感謝したいくらいだった。いや、同室の若者たちのなかには一人いたな。彼は六本木の交差点での一時停止違反だったが、警官の誤認だと断固として譲らず、友人の証言を得て裁判に進むことになった。
《まだ日本には、これだけ見所のある若者の、一人や二人はいるんだ!》おれはすっとしたね。
角を曲れば、もう会社だ。敷地内、とっつきの車庫は真っ暗だ、まだ一台も帰っていない。玄関の明かりも消えている。念のためにドアの取っ手を引いてみるが、開きはしない。鍵が掛かっているのだ。奥に進んで右手に折れる。修理工場事務所の明かりだけ点っているが、あのなかで休むわけにもいくまい。乗務員休憩所のドアは施錠してなかった。ガラス戸を開け、明かりをつけ、エアコンのスイッチを入れる。リュックを肩から外して、汗でぐしょ濡れの半袖ワイシャツをその上にひろげ、タバコを咥える。我慢していたから、すぐにトイレに駆けこむ。個室の小型扇風機を「強」にし、ルーパーも回す。腰をおろしてシャワレットの「強」の水流を肛門に当てながら、ゆっくりとタバコをくゆらす。
《トイレだけはここのほうがましだなあ》と、ぼくはつくづくとそう思う。発掘現場の安定の悪い仮設トイレでは、用を済ましたとて、うっかりつかまり立ちすると、トイレごと地面に転げてしまいかねなかった。そうでなくても、風の吹くたびに揺れて、タバコの味もしなかった。トイレごと地面にこけたら、あの世で見ている縄文人たちが手を叩いて笑ったことだろう、いや、後世の人間たちはあのようにトイレするのだと、みな代わる代わるに真似ては笑い転げたことだろう。
乗務員休憩所のテーブル前に腰をおろして、やっと汗が引いたから、ポットに入れてきたコーヒーをキャップに注ぎ、一口飲んで、箒木蓬生の『受精』を広げる。まだ午前二時前だから、みなが帰ってくるまで、充分に読書を楽しめる。やっと、舞子が乗馬するところまで、読み進んだ。と、早くも帰庫する一台のエンジン音が聞こえる。
《ちぇっ、いいところなのに! しょうがない、仕事だ》
「オツカレー! 洗車なら、おれがするよー」
「いや、自分でするから、いい」
《おお、そうかい、勝手にさらせ!》と、お蔭でまた読書に戻れた。しかし、二時半ともなると、
《せっかく、三鷹くんだりまで出てきたのに、今日は無駄骨だったかなあ》と、いささか不安になる。
《おっ、こんどは二、三台、けえってきた!》と、ひょこひょこ、洗い場に出る。もう長靴に履き替えている。上は薄手のメリヤス一枚、帽子は目庇を後ろに回して、完全な洗車屋スタイルだ。
「オツカレー! 洗車なら、おれがするよー」
「おっ、そうかい、助かるなぁ。どうした?」
「喪中だよ、喪中!」
「何だ、また免停か! しょうがねえなぁ、そら、頼んだぜ」
「あいよ」おれは最初の一枚をコール天の尻ポケットにたくし込む。やつが納金を済ませているあいだに洗車に取り掛かる。昨日は雨が降らなかったから、まずは毛ばたきだ。ルーフ、フロントグラス、ボンネットと、あとの手間を考えて、二本の毛ばたきで丁寧に埃を落としながら車を一周する。



真横に帰庫したばかりの一台を、ぼくは横目で睨む。運転手は眼鏡に若禿の気のいいやつだ。顔なじみだから、声をかけるのもずっと気安い。日報を書き上げる目線がひょいとこちらに向いた。互いの目が合う。
「う、ふ、ふー、ほい、どうした?」
「う、ふ、ふー、職替えよ」
「免停かい? 洗車とはご苦労なこった、七六一号車の分も予約しとくか、三時半には帰庫するはずだ」
「ありがとよ、任せとけ」
《さあ、忙しくなった》ぼくは二本の毛ばたきを宙で打ち合わせ、手早くトランクの燃料タンク脇にしまいこむ。綺麗な車だ。《これならこのまま出庫でも支障はあるまい》しかし、金を受け取った以上、そうはゆくまい。《少なくとも自分の乗った車以上には、綺麗にしておかなくては》用意してきたタオルをバケツの水で濡らしてよく絞って、まずハンドルをギュッギュッとぬぐう。クラクションを鳴らさぬよう、要注意だ。なにしろ、深夜なのだ。隣近所の迷惑にも、思いを致さなければ。全後部の灰皿はとっくに中身をごみバケツに空けて、水を張ったバケツに叩きこんである。それから、パネル、シート、サイドボックス、タバコの灰ひとつ残さぬように拭き取ることが肝心だ。運転席、助手席、後部客席のカーペットも剥して車外に抛り、フロアーを拭う。このころにはぼくはもう汗みずくだ。邪魔な眼鏡はとっくに外して、タバコ、水ボトル、タオル数枚とともに支柱の隙間に置いてある。
洗車ホースを伸ばして、水を噴きかけ、化学石鹸をつけた束子でごしごしタイヤとタイヤホイールを洗う。よく泡立てると、一人前の洗車屋になった気分がしてくる。《果たして、ぼくに出来るのか?》そんな浮ついた心も、一台洗車中とて、地に着いて、何かしら落着いてくる。タイヤの次にはカーペットを束子で洗って干す。どうせ乾きやしないのだが、運転手によっては、
《濡れそぼったカーペットほど気色悪いものはない》なんて文句垂れるやつもいるから、また車内に敷くときにはタオルで拭っておかねばならない。まさに油断大敵なのだ、何事も。これが冬だと安物の長靴にしみこむ水が冷たくて辛いところだが、茹だるような暑さの夏の深夜には水仕事はむしろ心地よい。しかし洗車は、分かりきったことだが、夏よりは冬のほうが楽だ。少なくとも暑いうちは、みなそう思う。
《さて、ここからが本仕事だ》ぼくは固しぼりしたタオルを右手に、乾いたタオルを左手に持ち、まずフロントグラスの内側を濡れタオルで隈なく拭った後、乾いたタオルで隈なくふき取る。表側も同様にすると、ガラスがピカピカに透きとおって、顔を近づけなければ、あるかないか分からぬほどになる。《これがプロの仕事ってもんだ》ぼくは息つぐ暇もなく、およそ車のガラスというガラスをピカピカに仕上げる。灰皿とカーペットを綺麗に拭って車内にセットし直す。ここで一服したくなったが、まだ仕事は残っている。固しぼりのタオルでボンネット、ルーフ、両サイドのドア、トランクと磨きたてる。行灯、ナンバプレートも拭き忘れてはいけない。ひと段落しても、《ワックスもかけとけよ》なんていうやつも、他の会社には少なくないが、幸いここではまだそういうやつにはお目にかからない。自分でしているのだろう。あとはバンパー、車体下部の汚れをふき取るだけだ。これが腰には一番つらい。
やっと一台洗車が終っても一服するどころか、トイレにも行けない。もう次々と帰庫してくるから、油断するとすぐ洗車場が満杯になって動きが取れなくなる。のんびりしていれば、まさに自分の首を絞めることになるのだ。洗車の終わった一台を直ちに出庫準備完了の車列に置き、二台目の洗車に取り掛かる。汗が迸り散る。
こうして二台、三台と洗車していると、予約の七六一号がライトをつけたまま洗い場に入ってくる。見ると、ルーフが水滴だらけだ。
「何だ、雨か?」
「ああ、たったいま降ってきた」
「なんてこった」雨だと車を丸ごと水洗いして、降り続きそうならそのままほっておくが、止みそうなら外側を乾拭きせねばならない。手間が増えること、夥しい。おれは勢いよくホースで車全体に水をぶっ掛けて、タバコを一本咥えると、懸案のひと小便しに行くことにした。
さっぱりすると、気を取り直して、左手のホースで水を注ぎかけながら、右手のスポンジで車体を丁寧にぬぐう。ここでスポンジを使って車全体を丁寧に水洗いしておけば、あとは両手に乾いたタオルを何枚か替えながら、乾拭きすれば車体も窓も外側は完了だ。雨さえ降り続けば、乾拭きの手間も要らない。吹きさらしの駐車場に車を出せば、それで終わりだ。かえって手間が省けるというもんだ。むろん、鳥の糞などは束子で洗い落としてからの話だが。決まってボンネットやルーフに、烏や鳩や小鳥の糞をこびりつかせて帰庫する車がある。運転手はよほど恰好の木陰で昼寝を愉しんでくるのに違いない。自分のこともあるから、
「染みのつかねえうちに、拭ってくるもんだ」
と、いちいち文句垂れるわけにもいかない。
あいにくと雨は小止みになってきた。空模様を気にして露天に出る時間も惜しいから、みな乾拭きしてしまう。乾拭きも使い古しの洗って乾いたタオルでないといけない。新品のタオルだと、どうしても拭きあとにけばが残って、文句を言われてしまう。一服する間は遠のくばかりだ。出庫の早い車は遅らせるわけにはゆかない。ぼくはシャツからパンツまで汗でぐしょ濡れだ。ズボンは汗とホースの水で、とうに濡れそぼっている。五台を過ぎると、タイヤを洗う間にも、腰の痛みは増してくる。疲れるが、頭はすっきりとして、なぜか気分はよい。ぼくは結局、身体を酷使する仕事が好きなのだ。原書をひねもす読むか、終日の肉体労働、これに限る。他人の労苦の収奪のうえに成り立つ割のいい仕事、これが一番いけない。一部上場企業の幹部、こんなのは最悪だ。ぼくが精神を病んだのも当然だった。さて、世間的に下積みに属するタクシードライバーに職を得て、ぼくは精神の健康を取り戻したが、免停で当局にハンドルを取り上げられて、洗車屋に転身し、いまや下積みの下積みの境遇となったけれど、精神は健全でいくら意気軒昂でも、肉体はガタが来て、経済的には相変らず逼迫している。これが人生かもしれないけれど、少しは考えてみないといけない。一個の人間として。かみさんが可哀想だけど、ぼくの考えはそこまでは及ばない。彼女はぼくといる限り幸せなのだ、そう思っている。ぼくがそうだから、と言うのは根拠としてはあまりにも薄弱だろうか?



「おい、ちょっと来い」
頼まれた車の洗車を全部終え、洗車場でぼくが両脚を投げ出して考えるともなく一服していると、六時過ぎに出社した部長がぼくを呼びつける。無作法なやつだ。こいつは掃除の小母さんによれば、口は極めて悪いが根は気のいい男なのだそうだが、無礼なことに変わりはない。湯たんぽに目鼻を付けたようなのっぺり顔の五十男で、唇がやけに厚い。
「なぜ、ちゃんと報告しない?」
「免停の件なら、期間の確定した段階で〈府中〉から電話を入れてますよ。その電話受けたのは会長かな」
この間に会社はテーエムに買収されて、社長は当座はこの会社の会長に納まったのだ。「六十日が講習受けて三十日間に短縮されました。いや、社長の声聞くと、元気出ますね」と、電話口だからと、ぼくはやけくそのよいしょまでサーヴィスしたのに。
「そうじゃない、なぜ一件書類を提出しないのだ?」
「あっ、書類ならリュックの中だ、いま持ってきます」
「ふむふむ、これだと次は一発取消だね」
と、テーエムから派遣されたやけに色艶のよい新社長の若造がのたまう。こうしてぼくは違反根絶の必要性を、新社長と部長となぜか鮪の頭を思い出させる新課長からこもごも、懇切に延々一時間半も説教される羽目になったのだ。いくつ会社を変っても変わり映えのしない三流会社管理職の論理、いちいち反論する気も起こらない。徹夜の洗車で疲れているうえに、こんな調子では九時からの〈府中〉講習に遅れやしまいかと、ぼくは気が気ではなかった。それでもやれ事故・違反報告書だ、始末書だ、反省文だと、やたらと文書を書かせられないだけでも、この会社はましなほうなのだ。
やっと事務屋から解放されて、ぼくは明るい空の下、帰途に着く。といってもこれから〈府中〉講習に向うのだ。時間が限られているから、痛む腰と足に挑むかのように歩速を遮二無二早める。途中、北裏発三鷹終点のバスが何台もぼくを追い越してゆく。
《だからと言って、いまさらバスになど乗れるか!》
これである。武蔵野市役所を過ぎて、最初のコンビニに入る。一三五円でまがいものビールを買い、歩きながらグビリグビリと呑む。昨夜来の労働の報酬だ。五日市街道越えてすぐの小公園ベンチにへたりこみ、欅の葉裏にタバコの煙を飛ばす。
《問題なのは共訳グループの中心が河島先生だと言うことだよ。これが米川さんや千種さんなら、何の問題もない。彼らなら、ぼくらが努力さえすれば必ず凌駕できるし、ぼくらの方向性から言っても凌駕せねばならない。実際、ぼくらの訳文のほうが光る場面も多々出てくるのではないかな? だけど、河島先生の『流刑』にはぼくらはいまの倍も努力しても到底追いつけない。追いついたと思うころには先生はずっと先に行っていることだし。共訳とはいえ、これがぼくらグループの実態であることは踏まえておくべきじゃないかな?》
《ふむ、だけどそれと今回の三鷹の行動とはどう繋がるのさ?》
《短編集『祭りの夜』共訳作業中に、しかもだおまえの『新婚旅行』と『丘の上の別荘』提出は遅れているのに、長編『丘の上の家』の訳稿をすでに編集者に渡しているとはどういうことだ?》
《まだ渡しきっちゃったわけではない。そこで提案なのだが、ぼくの《丘の上の家》の訳稿を、ここにいる全員、竹山くん、古賀くん、川名さん、河島先生の全員で検討してみてくれないだろうか? ぼくとしては最終稿を提出しているつもりだから、各自加筆してもらって、決定稿は河島先生、その過程さえ分かれば、ぼくとしては異存はないのだけれども。解説はむろん先生にお願いしたいんだ》
ふん、こんなふうに議論が進めば、三〇年前のあのパヴェーゼ共訳難船は避けられたのだろうか? 当事者としてはいまだに分からないことばかりだ。いまにして思えば、裡に大いなる敵を抱えていたのはぼくばかりではなかったのだ。竹山、古賀、みな然りだ。若かったのだろう。気がつくと、ベンチにへたり込んだまま、両脚を投げ出し、朝雲を追って、もう三服もしている。 
《〈府中〉講習にゆかねば》
ぼくは四本目のタバコに火を点けたのを機に、また歩き出す。
《新進気鋭のイタリア文学者からタクシードライバーはおろか洗車屋にまで、この身は零落して、果たしてそれであの破船の責任は取ったと言えるのだろうか? 言えはしまい。パヴェーゼで難破したのなら、やはり責任はパヴェーゼで取るしかなかろう。刮目せよ、いつの日か、きみたちはわが訳業を目前にすることだろう》
いつしか井の頭通りを渡りきっていた。
《ん? 復刻、キムカル丼?》
変な幟だが、そういえば腹が空いた。朝飯を喰わねば。しかし、時間は一〇分もないぞ。ぼくは七分で平らげ、三鷹駅北口に急ぐ。



武蔵小金井北口に降りてバスに乗る。何度も通ったルートだ。あと一五分しかない。貫井トンネル手前の小金井警察前と前原坂上で渋滞に嵌らならければ、ぎりぎりセーフというところか。九時ジャストに試験場正門前でバスを降りる。
《うっ、再発した、坐骨神経痛だ!》
バスの昇降口から路面に着地したぼくの片脚から力が抜け、つんのめりそうになる上半身を、残る片脚を踏ん張ることで何とか支えた。一瞬、直立姿勢を保ってはいたが、バスの車体を離れる一歩が踏み出せない。小刻みに左右の足を動かし動き出したぼくを、迷惑げに若い乗客たちが躱して正門に走りこむ。正門に辿り着いても、ぼくの場合、なおも西館別館とやらにゆかねばならない。利かない脚で急ぐと脂汗が滲む。目的の建物手前に看守みたいな男が立ち、こちらを眺めている。
「一七一番かね?」
「はい、そうです」
「四分遅刻だ、まぁ、いい。入りたまえ」
講習はすでに始まっていた。建物敷地に降りて待っていてくれた、一見看守みたいな痩せぎすの教官のお蔭で、ぼくは入室を許されたのだった。一番後ろの一七一番の空席に着き、パンフレット様の二冊の教材――これが一冊一万円もするのだろうか?――を拡げる。相変らず交通法規と交通安全、タバコも吸えない密室に講師の眠気を誘う声が響かなくても、ぼくみたいに絶対の睡眠不足がなくても、ここで眠りこんでしまわないのは至難の技だ。前屈みで頬杖をつくなどは論外だ。ぼくは上体を起こして両目を大きく見開くことにだけ全力集中した。それでも
「一七一番、眠るなら、退室してもらうぞ!」
と、禿教官から声が飛んできた。両目はしかと開いていたのに、どうやら軽く鼾を立ててしまったらしい。それでも何とか午前の講義をこなして、午後は実地演習らしい。ハンドルを握れるのだ、眠くならなくていい。
「しまった、眼鏡!」
何としたことだ、ぼくは眼鏡を洗車場に置き忘れてきてしまった。免許証には眼鏡着用と記載されていたはずなのに! 
《眼鏡はどうした?》
《今日はコンタクトです》
《ふうむ?》
ぼくの目を覗きこむ教官。悪夢だ。
《ま、何とかなるだろう。今日だけは左足でブレーキを踏むのは控えなくては》《ふだんなら、たとえ右足に坐骨神経痛が出てブレーキを踏み込めなくても、両足で踏むから車はなんとか停まるのだが》
二九号車に講習生は三人いて、ぼくは最後にハンドルを任された。みなぼくよりも若いのに、運転は上手いものだ。坂道発進、S字カーブ、懐かしい試験場めぐりはあっという間に過ぎて、教官講評の場面を迎えた。年の割りにスポーティな教官がぼくを振り返って言う。
「さて、最後に三鷹さん、あなたは信号に気がつきましたか?」
「えっ、あの点滅のですか?」
「そうです、点滅の赤信号。スッと、通ってしまったから、まったくびっくりしたなぁ、もう。路上で、パトカーがいたら、追いかけられますよ」
そんなこと言ったって、ぼくの運転法では、交差点で前後左右に車がいなかったら、スムースに進行してしまうに決まってるだろう。点滅赤信号は一旦停止だとは知らなかった。これでまた講習、やり直しだろうか? まったく、寝不足の身には応えることばかりだった。あとはシュミレーションやら、適性診断やら、午後五時近くまで、まったく盛りだくさんのことであった。



大阪砲兵廠跡地でのアパッチ族の活躍、そして日本のアウシュヴィッツ大村収容所。ぼくは帰りの電車の中で車輌の隅に座り、ヤン・ソギル(梁石日)『夜を賭けて』を開いていた。
「パシャッ」
突然の閃光、そしてページが真っ白になった。なおも目を凝らすと、ようやく薄黒い活字の列が見えてきたが、まるで意味を汲み取れない。
睡眠不足も限界だった。しかしここで眠りこむと、八王子はおろか、大月まで持っていかれてしまう。ぼくは意味の取れない活字の羅列を睨み、車内を眺め、窓の外を走り去る日野橋付近の景色に目を転ずる。この車内の雰囲気はパリの地下鉄に似ている。掛替えのないシュラフを落としてしまったパリの地下鉄に、何となく似ている。
リュックに文庫本を押しこむなり、閉じかけたドアから辛うじてホームに降り立つ。豊田駅だ、やっと帰ってきた。駅前通りを歩きながら、眠りこまないためにタバコを立て続けにふかす。段差は敵だ、階段は敵だ。おんぼろアパートの三階まで痛む身体を押し上げて、部屋に入るなり蒲団を敷いて潜りこむ。
「ご飯だよ」
かみさんの声がする。いつの間に帰ったのか、部屋には眩しく電気が点いて、もう夕食の用意が出来ている。
「うっ、うーん、お帰り」
「いつ帰ったの?」
「さっきだよ、昨日は七台も洗車した」
「すごいじゃん」
「ほら」
ぼくはコール天のズボンの尻ポケットから、汗に濡れそぼった札を抜き出し、一枚伸ばしながらかみさんに渡す。
「サンキュウ」
たとえ一枚でも日銭を渡せるというのは大したことだ、なにしろ今月は渡せる月給はないのだから。
ビールを飲んで、息子手作りの油ラーメンを食いながらジンロックを啜っていると、
「おれにもくれよ」
と、息子が顔を覗かせ、大きなマグカップを差し出す。子供部屋で三食弧食しているくせに、酒だけは親父に分け前を要求するのだ。
「氷を入れて、飲むんだぞ」
と、ぼくは残り少なのジンをなみなみと注いでやる。
「これは唐辛子をかける料理じゃないよ」
と、息子は部屋を出がけに、ぼくが思いっきり振りかけようとしていた一味唐辛子をスッと持っていってしまう。美味い麺をもっと美味くしようとしただけなのに。なんとも思い込みの激しい男なのだ、ぼくの息子は。デルを勧め、システムを立ち上げたのは彼だから、その点はアフターも含めて一目置いているのだけれども。皿を片付け洗いにかみさんが台所に立つのと入れ替わりに息子がまた顔を覗かせ、
「マッサージする?」
「おっ、たのまぁ」
《やれやれ、食休みする間もありゃしない》
ぼくは敷いたままの蒲団に腹ばいになり、歯をくいしばる。すかさず息子の力強い指先がぼくの背中を襲う。いちばん揉んでもらいたい腰骨の辺りはなぜか素通りして、背骨の両脇を急襲する。
「うっ、うーむ」
腋の下あたりは揉むというよりは、これはもう文字通りの筋肉掴みだった。
「うっ、ありがとよ」
ぼくは黒い小銭入れから百円玉を三枚取り出して、息子の広げた手のひらに載せてやる。
このまま眠ってしまったら、到底十一時半の洗車屋出勤時刻には起きられない。ぼくはタバコを咥えて仕事場に行くことにする。
「ちょっと往ってくらぁ」
「早く帰ってきてよ」
「ん? 十一時半に戻ったら、着替えてすぐ洗車に行くよ」
「そう、ご苦労さん」
階段を降りきったところで、咥えたままのタバコに火を点ける。腰が浮いたみたいに、よろよろと歩き出す。
「こりゃもうフウテン老人だ、あの全共闘肉体派のこのぼくが」
途中、団地内小公園のベンチに腰をおろして、黒い藤棚にタバコの煙を吹きかける。強張った脹脛を揉むあいだに、手指と裸の踵を秋の蚊に刺されてしまった。
《ジン混じりのおれの血を吸って、蚊のやつめ、悪酔いしなけりゃいいけれど》 



身体が何となく熱っぽい。真っ白い梔子でもなく、沈丁花の強い香りとはさらに違う、たわわに黄色い花房を垂れるあの樹の甘ったるい匂いの中を歩くと、暑くもないのに汗がにじみ出る。仕事部屋に入ったとたんに、くしゃみを立て続けにした。風邪を引いたのかも知れない。洗車ホースの水に濡れそぼったコール天のズボンのまま、電車やバスに乗ったり、講習を受けたりしたせいだろうか? 脛や膝が冷たく冷えて、ぼくはその骨に齎す悪影響のほうをむしろ気にしていたのだが。
端末を立ち上げながら、タバコをくゆらして考えた。
《あと三時間弱だと、これから創作に取り組むには短すぎるし、むろん新たな翻訳に掛かるにも半端な時間だ》
そこでぼくはいわゆるおさらい、手習いにこの半端な時間を充てることにした。パヴェーゼの原文を打ち込むと、到底手許を見ずに打ち込むほどにはスピードは回復しないけれど、その代り、パヴェーゼの真意が垣間見える刹那がある。昔の人が唐詩選を筆写させ、声を出して暗誦させたのはそれなりに理由のあることだった。指と声を通して身体に入った詩文はその人の血となり肉となるのである。しばらくすると、さらに原文の上に先生の訳文を打ち込んで、対置させて、その距離を測る。いつもひどく感心させられてしまうのだが、ぼくは一旦これを忘れて、いずれおのれの訳文を創り出したいのだった。
《 ときどき、折をみて、ぼくは自分の意見を言った。
Di tanto in tanto, all'occasione, dicevo la mia,
前にもタリーノに言った覚えがある。
perche' l'avevo gia` spiegato a Talino,
谷底の井戸のなかで仕事をしているところを見た証人がいる以上、
che se uno l'hanno visto lavorare dentro un pozzo a fondo valle,
丘の上の火事を彼のせいにするのは少し無理だろう、と。
e' un po' difficile accusarlo di un incendio su in collina.
しかし近在を旅してまわり、タリーノにも腕のたつ蹄鉄工と認められているそのベルトという男は(彼はぼくと同じ名前だった)、
Ma quel Berto (si chiamava come me) che quei paesi li aveva girati e si maneggiava Talino da buon maniscalco,
月もないのに夜の井戸のなかでタリーノの顔など見えるわけはないが[夜の井戸のなかではタリーノの顔はおろか、月さえ見えるわけはないが]、無罪放免になったからには、もう安心だ、と何度もタリーノに繰り返した。
tirava a ficcargli in testa che adesso stare tranquillo, visto ch'era prosciolto, perche' in un pozzo di notte non si vede neanche la luna, nonche' la faccia di Talino.
「えっ、夜だったのか?」とぼくは言う。
- Perche', e` stato di notte? - dico io.
「そうともよ、このばか、夜だからひとに見られた方が良いのに、逆に井戸のなかに隠れたんだ」
Sicuro, questo goffo, per farsi vedere di notte, va a nascondersi nel pozzo -.
ようやく、タリーノがつきまとって少しも離れなかったことに、ぼくは気づいた。
Allora mi accorsi che neanche un momento Talino aveva smesso di lavorarmi.
やがて誰か[少年/相棒]があの男を呼びに来る、しかし彼はテーブルで待っていろ、とぼくらに言う。
Poi quell'altro lo chiamano, ma ci dice di aspettarlo al tavolo.
―― Cesare Pavese 《Paesi tuoi 》Einaudi 河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)》
あともうひとくさり、やってみようか。原文にしろ訳文にしろ、手が遅くなれば、到底スラスラとは打ち込めないし、読み進めない。それが考える余裕を生む。ふだん何気なく読み進んでしまう箇所でも、立ち止まって考えてみる、まさにそれこそが狙いなのだから。
《「おい」ぼくはタリーノに言う、「なぜ家が焼けたのは夜だとぼくに言わなかったんだ?
- Senti, - faccio a Talino, - perche' non mi hai mai detto che quella casa e` bruciata di notte?
それがおまえのやり方か?」
Sono figure da far fare?
「だけど、おれは昼間って言ったかなあ?」と彼はたずね返す。
- Perche', ho detto di giorno? - chiede lui.
「まあいい。これからどうする、三リラで飯が食えるか?」
- Lasciamo perdere. Adesso come si fa, con tre lire, a mangiare?
「ベルトと食おう、あいつはモンティチェッロに来るといつもおれの家に泊まるんだ」
- Mangiamo con Berto, che quando passa a Monticello dorme sempre in casa nostra.
首の汗を腕でふきながらベルトが戻ってくる、そして戸口で何か叫んでいる。ぼくらはミネストローネを注文する。
Torna Berto asciugandosi il collo col suo braccio e gridando sulla porta, e comandiamo il minestrone.
「田舎料理だが」とぼくに言う、「スープの少しぐらい飲まなくちゃ」
- Roba da campagna, - mi dice, - ma un po' di minestra ci vuole.
「一年じゅうまわっているのですか?」ぼくはたずねる。
- Girate tutto l'anno? - gli faccio.
「さあ」とうながしながら、彼はパンを砕く、「馬だって食べさせなくっちゃ。
- Andiamo, - dice, rompendosi il pane, - il cavallo ha bisogno di greppia.
ここいら辺の道はトリーノとちがって、雪の天下なんだ。
Queste strade non sono Torino, e ci regna la neve.
十一月に、タリーノがぶどうを売るころ、最後の仕事まわりに出るんですよ。
Faccio l'ultimo giro a novembre quando Talino vende l'uva.
私が集金にいくころにはこいつの親父がどんな顔をするか、見てやって[ひとつ訊いてやって]おくんなさい」
Domandategli che faccia fa suo padre quando passo a incassare.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社(*[ ]内は筆者記す。)》
ついでだからあとひとつ、やってみようか。
《「今年はスープ二皿分の貸しもつくだろうし。
- Quest'anno avanzerete anche due piatti di minestra.
ぼくら、一文無しでモンティチェッロへ行くんですよ」
Andiamo a Monticello pelati come la mano.
彼は、口をもぐつかせて、「それだけ足どりも軽いというわけですね。あなた、御商売は何です?」
E lui, masticando: - Si va piu' leggeri. Che mestiere fate?
「車なしの自動車修理工」
- Meccanico senza macchine.
ベルトはタリーノをみつめてから、ぼくに言う。「で、モンティチェッロに車を探しに行くんですか?……
Berto guardo` Talino e poi mi dice: - E andate a cercarle a Monticello?...
あなたも許可証で汽車に乗っているくみですか?」
Viaggiate col foglio anche voi?
ぼくはちゃんと切符を見せてやる。
Gli faccio vedere il biglietto.
「結構なご商売ですね」とベルトが言う、でもあそこじゃむずかしいでしょうなあ。
- Lavolo interessante, - dice Berto, - ma farete fatica a ritrovarvi,.
自転車とオートバイぐらいでしょう、
Biceclette e motori.
冬のあいだは馬やわしら人間みたいにものを食べない、
D'inverno non mangiano come il cavallo e noialtri.
働きも倍はある、だけどここいら辺の連中ときたら頭がかたいから」
Si lavorerebbe il doppio, ma qui non le capiscono.
――Cesare Pavese《Paesi tuoi 》Einaudi河島英昭訳『故郷』晶文社》
ふうっ、疲れた。微熱のせいか、あまり集中できない。
「あっ、もう十一時半だ!」
ぼくは慌ててセーブし、電源を切り、仕事場を出て鍵を閉める。急いで帰宅し、髭を剃る間もなく着替えて(髭面でも洗車には別に支障ない)駅に急ぐ。中野行最終発まであと一〇分足らずだ。零時二十三分発のこれを逃すと、あとはもう武蔵小金井止まりの文字通り最終電車一本だけで、二駅分余分に歩かねばならない。半袖ワイシャツはボタンを留めずに引っ掛けただけなのに、汗が滴る。これで走ったらどうなることやら。もう何年も走ってないことだし。睡眠不足を少しでも補うために、電車の中では本を読まずに眠ることにしよう。乗り越しのリスクはあるけれども。
こうしてぼくの洗車屋第二日目が始まった。